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@uents blog

Code wins arguments.

私が愛したゴリラ、ヒトが作り出した世界の姿

先週の放送ですが、爆笑問題のニッポンの教養 - 私が愛したゴリラ」、とても楽しく見させて頂きました。


また、その時の放送がVeohにアップされています。(いつ消されるかは分かりませんが)

で、番組を見て、目からウロコの連続。
  • 人間に限らず動物というのは全て独自の社会を持っている
  • 価値観や気持ちを共有したい・共感したいという願望を持っている動物は、人間だけ。
    言い換えれば、共感とは人間が独自に開発した世界
  • 人間は言葉によってコミュニケーションを大きく変貌させたのは、疑いの余地がない。
    でも、ゴリラと通ずるコミュニケーション方法も、まだ人間の中に残ってたりする。
    (これは↑の放送をぜひ見てほしいな。とても興味深いです)
  • 人間の社会は、早いもの勝ちの社会。その価値観をみんなで共有し合っている
  • でもそういう価値観を仮に全て取っ払えたとしたら・・・
    少なくともゴリラは人間とは全く異なる価値観を持っていて、それで社会を築いている

後編のエンドロールでも流れていた、「人間は自分の価値観の中でのみ自由なのだ」・・・ 確かにそう思わされた。お釈迦様の手のひらから逃げられなかった孫悟空のように、僕らがどれだけ自由を装っていても、それは人間社会という閉じた箱の中で振舞っているに過ぎないのかもしれない。


話はちょっとそれるんだけど、番組のホームページの編集後記の中でプロデューサーが面白いことを言っている。そのまま引用。

 「人間は最も早いことに優先権がある社会にしてしまった」「人間の社会は過剰」・・・。山極さんが徹頭徹尾、そのゴリラとの比較で、人間社会の「恣意 性」を、飄々と、さらりと抉られる度に、心地よい緊張感を感じました。たまたま、「早いこと」「多いこと」が「いいこと」にして進んできた社会の有り様が一瞬にして相対化される・・・。前提を壊して考えてみようという時に、その不安定感を嫌がる人と面白がる人がいると思うのですが、私などは明らかに後者で、枠組みが解体し、なにやら得体の知れぬ様相が広がる瞬間に、実にわくわくどきどき・・・。危ないヤツなんでしょうか(笑)。

 しかし、あえて詭弁を弄せば、全ての学問の試みはここに本質があります。既成の手垢のついた思考の、認識のパターンを疑い、今一度、新たな枠組みを打ち立ててみること。事態は新たな遠近法とともに、また異なる姿を見せ始めます。一見突拍子もなさそうな仮定から、思わぬ成果が生まれぬとも限らないのですか ら・・・。


確かに、山極先生も番組の中で「アフリカのジャングルに行ってゴリラの社会に身を置くと、自分が人間だということを本当に実感させられる」ようなことを仰っていた。

ところが、僕らは(少なくとも僕は)普段の生活をしている中で、自分達が生きている世界(=地球・宇宙)と自分達が作り出した社会を、無意識に同一視している気がしてならない。これも人間の恣意性がそうさせるのだろうか。

人間は数千年前から言葉を作り、知識を蓄積し、様々な学問を生み出し、それでも未だこの世の真実を見い出せずにいるが、こうやってゴリラをじっくりと観察して(遠回りかもしれなけれど)人間を見つめ直すと、また違った答えが得られるのかもしれない。

と言いつつも、「この世の真実」というモノも人間社会という箱の中の話だけかもしれないが。


また、次のようなことも述べていた。

 そう言えば、かつて「パラダイム」、「時代的文脈」などのタームが流行した時代もありましたね。単に流行という話ではなく、常に、既知の風景を、未知に変えることもまた学問のもうひとつの魅力のはずです。学べば学ぶほど、わかることもあるけれど、わからなくなることの方が多い・・・。この番組を始めて素直に感じる今日この頃、未知の風景を、みなさんと一緒にたのしみ続けられれば幸せです。

そうそう。何をするにしても、学べば学ぶほど分からなくなる事が多い・・・

でも、だからこそワクワクする・ドキドキする・楽しい。うん。この感覚はこれから先もずっと持ち続けたい。


何だか取り留めの無い文章になってしまいましたが、色々と考えずにはいられない番組でした。
そして、僕も無意識のうちにきっと共感を求めて、このブログを書いているんだろうな。